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『ガン』と生きる
ガンが見つかってから今日までの記録です
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ホスピス
2013年3月25日。
この日は父がホスピスへ移動する日でした。
まさかその日に父が亡くなるとは思いもしませんでした。

********************************************************

私は大学から北海道に住んでいて、家族は名古屋に住んでいたので
父の病気がわかってからはちょっとした検査結果などもメールや電話で
やり取りし、検査のたびにドキドキしていました。

父が入退院を繰り返すようになった翌年の2013年2月。
もう何も治療もできず、感染性の発熱を繰り返し、日に日に痩せていく父。
私は3月中旬に飛行機のチケットを取りました。
1週間ほどの滞在で、娘二人を連れて名古屋へ。
その短い間に一気にやるべきことを決めて母とあちこち行きました。
そのひとつがホスピスでした。

担当医から「ご主人にホスピスの提案をしてあげてください」と
母が言われたようで、いろいろ見た中でとても雰囲気がよかったから
一緒に見に行ってくれないか、と頼まれていました。
その直前に担当医から家族みんなに父の現状を伝える時間が
設けられました。
※その時に信じられないことがあったのですが、それは別の記事に記載します。

父がもうそんなに長くないと思われる、とCTやレントゲン画像を見ながら説明して
いったのですが、当時7歳だった長女はその場にいて話がよくわからないようでした。
しかし、看護師さんがホスピスの話をし始めた頃…
娘は大粒の涙を目に浮かべながら初めて言葉を発しました。

「じぃじ、死んじゃうの・・・?」

娘には父がずっと癌であることを隠していました。
下咽頭癌の手術のため声を失うことになったとき、長女はまだ2歳でした。
なので「じぃじはね、『ハックション!!って大きなくしゃみしたら声がすぽーんって
飛んで行っちゃったんだよ。
だから一緒に探してあげようね」と言ってずっとごまかしてきました。
途中からなんとなく大きな病気なのだろうとは成長とともに
理解していたのではないかと思うが、まさかもう命の期限が迫ってきているほど
危険な状態だとは思っていなかったのだと思う。
長女にとってあまりにも辛い名古屋となりました。

ホスピスは外来受診の予約をしなければならず、しかもすぐには
入れない、という話を看護師から聞きました。
3ヶ月は待つ、と…。
しかし奇跡は起きました。
なんと、私が名古屋に滞在中に受診予約が取れたのです。
本人は同席できないため、家族のみの受診で予約を入れるとのこと。
受診が終わってからは、館内や部屋の様子を見学できるということで
紹介状、レントゲン、血液検査のリストを持って行きました。

場所は愛知県日進にある愛知国際病院という所でした。
そこは『病院』という雰囲気はまるでなく、「日常」を感じさせる空間がありました。
ちょうどティータイムで、ボランティアの方達が紅茶やコーヒーを入れて
お菓子を添えていました。
隣りでは絵を描いていらっしゃる方もいました。
紅茶の香り、ゆったりとした音楽が流れ、談笑が遠くで聞こえます。
カチャカチャという食器の音は無機質ではなく、私達が日常の中で何気なく聞いていた音。

入院生活が長引き、しかも癌性疼痛で苦しむ父にとって、医療機器の音ではなく
この日常の音が聞こえる中で最期の時間を過ごしてもらえたら…
一瞬でも病気を忘れる瞬間ができれば…
私も母も迷わずそこに決めました。

しかし、面談で父のCT画像を見た医師はこう話されました。
「かなり癌が進んでいますね…。もしかしたら入室まで間に合わないかもしれません。
それでも手続なさいますか?」と。
「辛い話ではありますが、お部屋に入られた瞬間息を引き取る方もいらっしゃいますし
来る途中で息を引き取られる方もいます。
ご主人の肝転移はかなりひどい状態です。
いつどうなってもおかしくはないかと…」

それでも可能性を信じて予約を入れ、札幌に戻らなければならない
前日まで毎日父を見舞いました。
ちょうど、次女が誕生日を迎える日と重なったため、ディルームに
ケーキを持ち込んで、父を車いすに乗せて連れてきて、みんなで
次女の3歳のハッピーバースデーを歌いました。
看護師さんに携帯の動画で撮影してもらいました。
部屋に戻ってからも苦しそうに横になる父。

もう面会時間が終わりそうだったので、父に言いました。
「お父さん、4月にもう一度来るから!絶対来るからさ。
その時にきちんと迎えてよ?話してよ?お願いだよ!」

気づいたら涙があふれてきて、父も私の手を握りながら
うんうんとうなづいていました。
これが最後ではない、きっと最後ではない。
そう信じて、子供らを連れて一度札幌へ戻りました。

これが、みんなで集まった最後の父の姿となりました。

***************************************************

ホスピスへ行く当日、父と家族みんなに朝一で一斉メールを送れるように
前夜にメールの文章を作り、携帯で送信予約をしておきました。

『気を付けて移動してね。お母さんも何かあれば連絡してね』
他にも色々書いてみんなに朝9時に届くようにしました。

私は夫と動物病院を経営しており、その日も子供たちを送り出して
次女を保育園に連れて行こうとしていました。
その時母から電話が。
「お父さんの血圧が一気に下がった。危ないかもしれへん。
あんた、来れるか!?」
そこから私達の衣類を一気にまとめ、次女と共に小学校にいる娘を迎えにいき、
そのまま空港まで車で必死に向かいました。
途中、弟から連絡が入り、「お姉ちゃん、今お父さんの耳元に携帯あてるから。
声聞こえてるから」と言われたので、
「お父さん!?今行くから!待ってて!絶対行くからね!がんばってよ!!」
と叫ぶと、弟が「うんうんって頷いてる」と言ってくれました。

空港について、一番早く乗れる飛行機を探しましたが、なんせ自分はパニック状態です。
どの会社が早いのかすぐ見ることができない。
近くのカウンターに行って聞いたところ、他社のフライトまで見てくださいました。
しかしどうやっても1時間後しか飛ばず…。
1時間後、飛行機に乗るために携帯の電源を切ったちょうどそのころ…。
父は息を引き取りました。

やっぱり…札幌と名古屋は遠かったね、お父さん。
がんばったんだけどね。
ごめんね…。

ほんの一日でも、あの狭い大部屋のがんセンターからホスピスへ
移動させてあげたかった。
外のにおいを感じさせてあげたかった。

私が一旦札幌に帰る時に父が送った最後のメールは
「気を付けてお帰り」
でした。
父が亡くなった日、桜吹雪が空を舞っていました。
札幌ではなかなか綺麗な桜が見れません。

元々桜は好きだったけど、もはや一生忘れられないお花となりました。
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ご報告
初めまして。
父の娘、ladyといいます。

父は2013年3月25日に、息を引き取りました。
このブログを引き継ぎ、父の生前の闘病記録をここに残していけたらと
思います。

そして、同じように咽頭癌・肺癌で苦しむ方達に少しでも情報提供できたらと
考えています。


入退院
H22年7月半ばから、1週間位入院しては3週間位普通の生活と言う入退院の繰り返しとなった。
苦痛を伴う副作用はほとんどないが、抗がん剤を打つと白血球が激減し、
1500台や1200台まで落ちると感染防止のため外出禁止、生もの禁止となる。
見た目のダメージはそれ程ないのだが、1日中家にいて悶々と過ごす日々が続いた。

だがその年の暮れになっても一向に咳や血痰が良くならず、病巣も気管支の1か所だった事から
抗がん剤では良くならないとの判断で、放射線を当てる事になった。
放射線。
痛くも痒くもない楽な治療であるが、目に見えない体へのダメージが恐ろしい治療である。
H23年の2月から計18回の通院による放射線治療を受けた。
体にマジックで印を書かれ、体の正面、背中、斜め45度の3方向から照射される。
照射時間は15秒程度で、あっと言う間に終わる。
この治療の効果は劇的で、たちまち咳と血痰が治まり、見る見る体調が良くなって行き、
そして3月の気管内視鏡検査では、病巣がきれいに消えたと告げられた。

蛇足ながらこの検査の日が3月11日の東北大地震の日で、検査が終わってストレッチャーの上で
半分麻酔がかかってぼ~となっている時、ガタガタと激しい揺れに襲われたのを覚えている。

こうしてしばらくの間は平穏な日々が続き、3月末には長い間務めた会社の雇用延長も終わり、
しばらくの間は雇用保険と年金生活に入った。
暇な時間を潰す為、市がやっている教養講座にも出席し、4月からは新しい生活が始まった。
4度目の悪夢
H22年の5月頃、痰に血が混じるようになった。
発声教室の人達から、『風邪を引くと気管孔から血が出るので驚かないように』と言われていた為、
風邪かなと思っていたが、段々と赤い血が出るようになった。。byoin3.gif
大病院の常で、外来で担当医師の予約をすると受診できるようになるまで1週間以上かかる。
更に運の悪い事に、
下咽頭を手術してくれた先生が4月で他の病院に転勤になってしまい、
後任の先生には余り面識もなかった
ようやく受診し、抗生物質の薬を貰ったが、1.gif
2週間、3週間が過ぎても一向に血痰が収まらない。
徐々に呼吸もゼイゼイとなり、再度長時間待たされて診察して貰った所、
4年前に肺がんを手術してくれた先生の診断を受けるよう手配してもらった。
気管内視鏡で見て貰った所、左気管支に腫瘍が出来ているとの事だった。そこから出血しているらしい。
気管支に癌ができると、その側の片肺全体を切除しなければならないそうだが、
私の場合すでに右下葉を切除しているため手術は出来ないと言われた。

呼吸器内科に入院し、PET検査、CT検査、組織検査の結果、小細胞がんの肺がんと判明し、
左肺内部にも数箇所影が写っていた。
転移か、原発性かの判断は難しいということであったが、結局同じ小細胞がんであり、
左肺にも転移があることから、4年前の肺がんの転移であろうと言う事になった。
下咽頭がんのリンパへの転移は絶えず恐れていたが、まさか肺がんが転移するとは思わなかった。
肺がんは私の中では完全に治っていたのである。
小細胞がんは直ぐに転移すると恐れられていたが、脳のMRI検査では幸い脳転移はないとのことだった。
結局抗がん剤治療だけすることになり、
今までとは違うカルボプラチン+エトポシドと言う抗がん剤を3~4週間隔で4~6回投与することになった。

入院初日、『これで13回目の入院です』と看護師に告げられた。
肺がん、下咽頭がん、食道がんの手術、抗がん剤投与などで出たり入ったりを繰り返し、13回にもなるらしい。
今回の入院は2週間におよび、シスプラチンのような激しい嘔吐の副作用は全くなかったが、
体がだるく、何もやる気にならないような日が数日続いた。
この入院中、同室に入院してきた小細胞肺がんの末期患者がいた。
脳に転移し、何度も放射線治療を受けて、今や物が2重に見えるらしい。
あちこちに転移もあり、息切れ、手足の痺れなど自分も治らないとこう言う将来が待っているんだと覚悟した。
2008-15_hok-c-hokutosei-oshamambe-toya(420-560).jpg

友がまた一人
H22年2月27日。
同期入社のNが亡くなった。
昨年4月に胃がんが見つかり、胃を全摘したが、その後他への転移も見つかって
抗がん剤治療や免疫療法などをやっていた。
月に1~2回のメールで様子を聞いていたが、在宅診療の医師をつけるなど、
本人も色々準備はしていたようだったが、訃報の知らせは余りに突然だった。
土日を挟んだため連絡ももらえず、訃報を知ったのは葬儀も終わった頃だった。
byoin3.gif
同期入社の中でも1,2の親友だった。
お互い転勤で段々と疎遠になっていったが、同期入社と言う強い絆で結ばれた友情は不思議なものだ。
彼で、同期の親友の逝去は4人目となる。
年を取り、段々と人数が減っていく。
悲しい人間の運命・・・
だがその次の日も、会社は何事もなかったように普段どおり動いている。
企業の歯車として働き、そして欠けて行く人生。
君は何を残したろうか?
そして私は何を残せるだろうか?image770.gifimage770.gifimage770.gif

頃合を見て自宅を訪ね、線香をあげに行くからな。



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